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生命保険を考える-生命保険の歴史

生命保険の歴史・・・・・。

保険の最初の起こりは損害保険であったそうです。古代ギリシャ、ローマ時代その当時に海上冒険賃借というものがあり、海上を運搬していると、海賊の襲撃に合い積み荷を奪われたり、船舶ごと盗まれたり、あるいは悪天候で船舶が沈没した場合、積み主に対して何らかの補償が必要になり、そこから考え出されたようです。

この保険起こりは、荷を受ける際に必要な渡航費用を、一旦投資家などから借り受け、積み荷が無事目的地に着いたとき初めて荷主から支払われる荷受料で、借り受けた渡航費用に一定の利子を付けて投資家に返すというもの。航海途中で襲撃にあったり、遭難した場合などで到着できなかった場合、船主は渡航費用の返済を免れるというしくみ。この一旦借りておくというところ・・これがいわゆる保険料ということになりますね。

イギリスのロイズなどはこうした仕組みを今に受け継ぐ、巨額な損害保障を請け負う引受人組合ですね。 リスクを引き受けるのはまさに投資家という資金提供者でなりたっているそうです。

生命保険の発祥は17世紀イギリスの牧師達の葬式代をまかなうため、お互いに出費したものを少しずつ積み立てたのが初まりといわれています。ただ年令に関係なく同額を払い込む方法なので、高齢者とと若い人とでは、一方は少ない保険料で保険金は受け取れますが、若い人ほど保険料をずっと払わないといけない不公平なものとなり、10年ほどで消滅したそうです。

ここからイギリス天文学者であるエドモンド・ハリーが、1693年終身年金に感刷る論文を発表。ポーランドのブレスフラウの残した詳細な住民の死亡記録にもとづいて、死亡年齢の統計を行い解析をしました。この研究成果を元にイギリス政府は年金サービスを提供する際、加入者の年令に応じた適切な価格を設定できるようになり、ここに保険数理学当ものが発達し生命表という統計データーが生まれることになったのです。これは保険にとって非常に有益なデーターでした

誰がいつ死亡するかはわからないが、年令ごとの死亡率はおおむねはっきりとわかるようになったのです。少ない統計であれば、誰がいつ亡くなるのかははっきりしませんが、大勢であれば限りなくこの生命表に基づく死亡率に近づくことになりますから、何人くらいが何歳で亡くなるかどうかがわかることになります。

この統計によって、それまでは保険料にどのような差をつけるかの指針がなかったものが、はっきりしたことで18世紀にはイギリスでこの死亡率に基づいた保険料を集める制度ができあがり、今の保険の元祖となっているそうです。



日本では明治14年福沢諭吉の門下生であった阿部泰蔵によって、あの有名な”明治生命”が創立したのが始り。きっかけは、福沢諭吉の著書「西洋旅案内」でヨーロッパの近代的保険制度を「災難請合とは商人の組合ありて平生無事の時に人より割合の金を取り万一其人へ災難あれば組合より大金を出して其損亡(そんもう)を救う仕法(しほう)なり其大趣意は一人の災難を大勢に分ち僅の金を棄て大難(たいなん)を遁(まぬが)るる訳にて・・・」 と紹介したことに始るそうです。

当時は封建時代の諸制度がまだ色濃い時代でしたから、一般の人の加入という事はありませんし、まだ生命保険そのものの理解はあまり無かったようです。当時は主に地方の名士達に生保の必要性を説いて周り、この名士の信用と名声と信用を持って普及に努めていたようです。

次に誕生したのが現在の朝日生命。(帝国生命)、次が日本生命でした。

これら3社が業務の拡張普及に努め、業績が好調に伸びていき、各地の資産家がこの生保事業に注目し始め、株式制度のもとで生命保険会社は次々誕生していったそうです。類似事業は数百社、保険会社そのものも40社近くあったというのですから、競争は現在の比ではないでしょうね。また統計的基礎に基づかない半ば強引な加入者募集を行ったことで、保険事業には非難が集中。この結果、以前お話しした生命保険協会の前身である生命保険会社談話会などが設立されました。 明治32年には保険業法が制定され、相互会社組織による生命保険会社の設立が認められるとともに、事業方法書や普通保険約款を統一整備されはじめたわけです。

保険の約款というのは実は独自に勝手気ままにつくれるものではなく、模範普通保険約款を元に制定されてきた経緯があります。業法によって相互会社(相互保険を営むための社団法人)に設立が出来るようになり、明治35年に第一生命、明治37年に千代田生命(現在はAIGスター生命)の2社が相互会社として設立されました。

明治27年の日清戦争、明治37年の日露戦争で被保険者の戦死者の対しても、生命保険会社はこれらの遺族に対して、保険金を支払ったそうです。

明治44年には、明治生命・帝国生命・日本生命の3社がこれまでの被保険者の死亡率を基にした死亡表「日本三会社生命表」を作成。これが日本初の経験死亡表で、実際の死亡率に近いものとなったのです。

大正時代になると、戦争に実際に参加するよりも、むしろ物資補給国として、経済は活性化したため、この頃大きく生命保険事業は拡大をしました。

大正3年に当時の大隈内閣が、社会政策のひとつとして、小口の生命保険を官営によって提供する方針を決定。当時の省庁、逓信省(現在の総務省や日本郵政株式会社及び日本電信電話株式会社(NTT)、KDDI株式会社は第2期の逓信省の後身に相当)が運営に当りました。外国の簡易保険に範を取り、無診査・月払いの契約で、最高保険金額を250円という低額に限定したそうです。

このころ保険の有用性が認識させられる出来事が起こりました。大正7年のスペインかぜの大流行、そしてあの大正12年の関東大震災です。スペインかぜでは、大正9年までに22万人を超える犠牲者をだし、大正12年の関東大震災では、東京府・神奈川県を中心とする1府4県下で、焼失・家屋倒壊は約60万戸、支社10万人に及び、大震災による全社の支払い保険金は約5,600件、700万円余にのぼったそうです。スペインかぜや関東大震災に際して、生命保険会社が多額の保険金を支払い、その使命を果たしたことは、その後の生命保険契約を一段と進展させる結果となりました。

その後大正末期ごろには、明治・帝国・日本・第一・千代田生命の5社への契約の集中傾向が強まって、新契約高で54%の占有率、保有契約高で51%を占めるようになりました。

しかしまた、激しい競争が激化し、不正な募集活動によって世間の批判を再び浴びるようにもなったのです。そのため、昭和6年に商工省令によって、保険募集取締規則が施行されるようになりました。その後も保険契約は増大していき、それに伴い生命保険会社の資産も増大し、金融機関としての地位も高まり、昭和10年末には全金融機関の10%の資金量を占めるほどに成長するようになったのです。これはもう、全国銀行、政府の資金運用部に次ぐ規模です。

日本の保険では、最初はほとんどが終身保険が大半、だんだんと養老保険が保険契約の主流になっていったそうです。これは養老保険が持つ貯蓄機能がより高く評価され、一方で、より多くの保障機能を持っている終身保険に対する需要が少なかった事に起因するようです。理由は色々あるようですが、死んでお金だけもらう事への抵抗があったこともその一つとしてあげられるようです。

第二次世界大戦では、 大量の国債引受や、軍事産業への投資を強いらるようになり、政府は戦時財政上、統制経済を強化するとともに、消費を抑えるために「国民貯蓄奨励運動」を行いましたが、「国民貯蓄は生命保険から」というスローガンを掲げ、この頃は生命保険会社も政府に協力していました。

終戦後非常に資金面でも痛手を負った生命保険会社は、昭和21年、金融機関再建整備法により、生命保険会社の資産・負債が新・旧勘定に分離され、旧勘定を整理の対象とするとともに、新勘定で再建整備を行うようになり、 多くの会社が新旧勘定を吸収するための第二会社を設立し、再出発をスタートさせました。この第二会社設立に際し、多くの会社が株式会社から相互会社へと組織変更をする事になったそうです。

敗戦による国民所得の低下は、そのまま年払、半年払に限っていた民間の生命保険会社の新契約に影響を与えるようになりました。こういった状況の中で、小口の集金を伴う月払いの生命保険というのは、戦前、簡易生命保険法により官営の独占事業とされていたそうですが、昭和21年に同法が改正され、民間の生命保険会社でも取り扱うことができるようになりました。昭和24年以降、多くの企業参入がはじまり再建が始りました。

この月払保険では、営業職員が一定の担当地区を持ち、その地区内の新契約の募集と募金活動を並行して行うようになり、それはデビット・システムと呼ばれていました。
そして、今日の「保険外交員」のベースが出来上ったというわけです。

生命保険事業というのは、成長しては後退ということを繰り返してきたんですね。

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